SiGMaの覚書

気が向いたら更新

終わりについて

 

 落日よ

 夏の終わりの落日よ

 もしも夏の

 陽射が永遠だったなら

 緑が永遠だったなら

 おまえはそれほど

 美しかっただろうか

 心をゆさぶられただろうか

 

 わが友よ

 たった一人のわが友よ

 もしも僕らの

 若さが永遠だったなら

 命が永遠だったなら

 おまえはそれほど

 美しかっただろうか

 心をゆさぶられただろうか

 

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衣装を着た思想

思想には衣装を与えてやらなければならない。裸の思想は危険なのだ。そして醜悪である。多くの人間はこれを直視することができない。だから思想は衣装を着せられてから世に送り出される。人間が衣装に身を包んで、醜悪な身体を世間に晒さないようにするかのように。あるいは死体を装飾し、祭壇を祀って、直視しがたい死を形式化してしまうかのようでもある。「衣装を着せる」とはこういった形式化の営みである。我々が衣装を着るとき、我々自身も形式化される。人間の身体は果てしなく多様で、とらえどころがなく綿々とつながった有機物の塊である。衣装は身体を分節化しラベル付けする。そして形式的なパーツの組み合わせに還元する。では思想における衣装とはなんであるか。それは表現手段ということになる。たとえば言語化された思想は既に衣装を着せられた状態になっている。これは決して言語に限ったものではない。しかし衣装を着せるという行為が、思想本来の姿を覆い隠し歪めるのだ。思想家が自ら味わった生の感覚がそぎ落とされている。いくら「痛み」を言語、あるいは映像から想像したところで、本当の痛みを知ることはできない。思想の真の姿を明らかにするには、まず情報媒体の壁を突破しなければならないのだ。自ら行為に没入し、湧き上がる内的感覚に向き合ってこそ、真の思想を知ることになるだろう。行儀よく衣装を着た思想に対する、これもまた行儀のよい社交辞令的批評の数々。こんなものの集積物を「教養」と呼んで、もてはやす世の中。仕方がない。世に出ているものは皆衣装を着せられているのだから。しかし個々の人間の精神はどうか。すっかり思考の内側まで「教養」と呼ばれるものに浸食された人間は決して少なくなかろう。それはもはや身体の伴った人間ではなく、衣装をかぶせるためのマネキン人形である。

まどろみと夢日記

 これは今日の午後のことである。遅めの昼食をたっぷり摂ってうとうとし始めた上に、昨晩の睡眠不足を補う必要もあって、私は横になった。そして怠惰な午後の時間がどれくらい流れたのか分からないうちに、ある体験が始まっていた。

 

 まず思い出されるのは、ノートに記された数式である。これはつい先日のこと、私が計算したある結び目のクラスに関係する不変量である。特に人に自慢できるような結果ではない気がしているが、研究は着実に進んでいた。私の専門は数学であるが、どいう言うわけか、とある物理学の教授が私の結果に興味を持ったらしい。それで、セミナーを開くから、そこで研究内容について詳しく話を聞きたい、とのことだった。なんとも不思議な感覚が生じた。物理関係者が私の研究に興味をもつのはそれほど不可解なことではない。しかしその教授が主催するセミナーはきっと物理学関係者ばかりだろうし、そんな空間に身を置いて研究を語ったところで、まともな会話が成立するのか不安になった。数学専門の私と彼らとは言語も価値観も大きく異なるはずだからだ。とはいえ講演を依頼されたのは素直に嬉しい。それで私はその依頼を承諾して、候補の日にちがいくつかあるので、具体的な日程を相談しようということになった。そうしていると候補日のひとつを提示するメールが送られてきた。なぜか開始時刻は日没後である。さらに不可解なことに場所は研究科棟1階のホールであった。こんな疑問をあれこれ詮索する面倒さに押されて、私はあっさりと提示された日程を承諾した。

 セミナー当日の夜になった。私はいつもの黒リュックに必要物一式を入れて、研究科棟の近くまで来ていた。学内の通りを、全員が同じ顔貌と格好をした異様な集団の塊が、日没後の闇から次々に姿をあらわしては闇に消えていった。やけに気味が悪いじゃないか。大学にはああいう属性の集団もいるのだと、はっとさせられた。

 研究科棟に入ると、既に大勢の人がホールにたむろしていた。20人くらいか。これにはさすがに驚いて少し後ずさりした。これほど人が多いものだとは聞いていなかった。数学関係者の前で講演するときはせいぜい5、6人くらいなのが普通だからだ。背もたれのない座席が並んでいるが、それも少し足りなさそうだった。ホールには一面ガラス張りの面があって、そこにスクリーンが掲げられ、プロジェクターの白く強い光に照らし出されていた。ガラス越しに外の景色が見える。地上はすっかり暗くなっても西の空には残光が残り、それを取り巻く濃紺に向かってグラデーションに染まった空。すぐに消えてしまうこの情景を目に焼き付けるように、私はしばらくの間ぼんやりと空を眺めていた。おかげでむさ苦しい人だかりの存在から気をそらすことに成功した。そうこうしていると、例の物理学教授がやってきて、よろしく、みたいなことを言ってきた。年配でおしゃべり好きな、感じのよさそうな先生で安心した。リレー形式で講演が行われるようで、私の前に別の講演があるらしい。これがやけに人数が多い理由であった。別の講演目的で集まった聴衆が多いのだろう。私は目立たない席に移動して、むさ苦しい熱気から逃れようとした。

 講演の開始時刻が迫ると、大きな集団が現れて聴衆に加わった。彼らから感じとられるのは、とてもアカデミックな場に似合わない騒々しさである。それが既に不快であった聴衆の熱気に加わって、この場は地獄と化した。もう帰りたくて仕方がない。床に向けていた視線を戻すと、その新たに加わった集団のなかに何人かの知人がいた。それも学部時代に同級生だっただけで、そのあとどこかに就職してもう顔を合わせることはなかろう、と思っていたような人ばかりである。一体なぜこんな場所に現れるのか。そのうちの一人が私を見つけて絡んできた。最悪だ。今まで何をしていたのか、それで何をしたいのか、というような詮索を次々に投げかけてくる。私は内心うんざりしていたが、多弁な返答でもってそれに対抗し、苦手な人間との会話で主導権をとられまいとした。私は正直なところほとんどの人間に対して興味などないので、わざわざ身の上話など聞きたくもない。にも関わらず、こうして自身のことを一方的に開示するよう要求されるのは、つり合いがとれない。このような非対称なやり取りは情報の搾取である。

 

 そんな具合で、大したオチもなくただ不快な気分になりながら私は目覚めた。そろそろ夕方である。なんとも虚無な気分である。夢が途中から不快さにまみれ、支離滅裂な展開になっていくのは、きっと身体が感じ取った午後の蒸し暑さを反映しているのだろう。せめて冷房を弱くかけておけばよかった。それにしても、私が人間を嫌う根本的な精神性が反映された夢でもあったとわかる。基本的に、人間がいればそこに不快さが生じる。異物という不快さである。これはもはや生理的次元の嫌悪感である。救いは孤立にしかない。記事を書き終わりつつある今、あたりはすっかり薄暗くなった。これから心地よい夜がやってくる。夜の暗さが世界の不快なものを覆い隠し、同時に私をも世界から覆い隠すのだ。こうして精神は落ち着きをもって深淵へと降下してゆく。ようやく生は充足感を確保し、存在論的につきまとう虚無から脱出する。

 

 

「説明者」であるということ

 ありがたいことに人間が何をして生きるかは自由なこの社会.少なくとも建前上はそうなっているわけだ.しかし生きるには多かれ少なかれ金が要る.金は寝ている間に勝手に貯金箱に貯まるものではないから、どうにかして外から獲ってこなければならない(もちろんこれは合法的になされるべきだが).合法的に金を確保するには既に金を持っている人間から渡してもらわなければならない.さて,自分の財布か銀行口座に入っているその金は誰かから渡ってきたものになるわけだが, その金が自分に渡るときに一体何が機能したのだろうか.たとえば赤の他人に唐突に金をよこしてほしいと言われたところで,誰も金を渡したりはしない.金が動くには何らかの,それも決して自明ではない条件が発生しなければならない.

 典型的な例は労働者である.多様な形があるにせよ,労働者がその職務を全うすれば賃金が得られる.この例に現れる金の動きは,労働の対価として発生している.金が労働者に渡るとき,そこに発生している非自明な条件とは,まず金を受け取る側の人間が労働者という身分を得ており,加えて自身の職務を果たした,ということに他ならない.つまり労働者は自身が労働者であるという身分と労働という行為によって,賃金を受け取る条件を確保したわけだ.これは決して「自明な条件」ではない.ひとりの人間がこの条件を確保するために一体どれだけのエネルギーを費やし,心身を消耗していることだろうか.もちろん労働というのは金を手にするひとつの形に過ぎない.何か事業を起こそうと思えば,まとまった資金を投資してもらうことになる.これも金を受け取るために条件をそろえることが必要な例だ.

 さて人間が金を獲得する形態は色々とあるわけだけれども,ここに世知辛い真実が潜んでいる.金を獲得できる条件とは,「説明者」にならなければならないということだ.もう少し詳しく言えば,自分が金を寄こしてもらうに足る根拠を,他者に説明し納得させなければならない.その説明とは文字通り投資の価値があることを出資者に説明する行為そのものでもあるし,労働者の例で言えば採用に当たって労働者として役に立つことを説明しなければならないということだ.もし生活保護を受ける身になれば,生活保護を受けるに値することをやはり説明しなければならない.このように世の中で人間は説明者として金を受け取り,生きている.だから説明者として失敗すれば,生存が困難になってしまうのだ.自分が世の中で生かされるに値する人間であることを説明できなければ,収入が途絶えて野垂れ死にするしかない世の中である.説明できるだけの根拠がそろわない人間も,説明が下手で人を納得させることができない人間も生存できない仕組みになっている.

 世の中の生きづらさとか,そういうものは大抵この説明者であることの苦痛から発生しているのではないか.我々が説明者であることから解放されるにはベーシックインカムなどの,金を獲得するために必要であった非自明な条件を撤廃することが必要になるだろう.あるいは完全に自給自足の生活をするしかないのではないか.そもそも人間の存在そのものは合理的な根拠をもって説明できるものなのだろうか.そんなものはないだろう.自分は気が付いたら自分として生まれ存在していた.それだけである.人類そのものにさえ何の意味もない.地球という水たまりに沸いた原生生物みたいなものだ.その人類が社会と宗教をつくり,勝手に自身の存在を意味付けしているに過ぎない.我々個人はその虚構の世界観の中を泳がされている.そしてその虚構の世界観の中で,自身を意味付けし,他者を納得させる説明者であることを演じるよう仕向けられているのだ.しかし視点を変えてみれば,我々が説明者であることも人間社会という舞台の上で演じられているに過ぎないのであり,そこには深刻さをこえた滑稽さがある.人生はシビアな冗談なのかもしれないと思う.