SiGMaの覚書

気が向いたら更新

「説明者」であるということ

 ありがたいことに人間が何をして生きるかは自由なこの社会.少なくとも建前上はそうなっているわけだ.しかし生きるには多かれ少なかれ金が要る.金は寝ている間に勝手に貯金箱に貯まるものではないから、どうにかして外から獲ってこなければならない(もちろんこれは合法的になされるべきだが).合法的に金を確保するには既に金を持っている人間から渡してもらわなければならない.さて,自分の財布か銀行口座に入っているその金は誰かから渡ってきたものになるわけだが, その金が自分に渡るときに一体何が機能したのだろうか.たとえば赤の他人に唐突に金をよこしてほしいと言われたところで,誰も金を渡したりはしない.金が動くには何らかの,それも決して自明ではない条件が発生しなければならない.

 典型的な例は労働者である.多様な形があるにせよ,労働者がその職務を全うすれば賃金が得られる.この例に現れる金の動きは,労働の対価として発生している.金が労働者に渡るとき,そこに発生している非自明な条件とは,まず金を受け取る側の人間が労働者という身分を得ており,加えて自身の職務を果たした,ということに他ならない.つまり労働者は自身が労働者であるという身分と労働という行為によって,賃金を受け取る条件を確保したわけだ.これは決して「自明な条件」ではない.ひとりの人間がこの条件を確保するために一体どれだけのエネルギーを費やし,心身を消耗していることだろうか.もちろん労働というのは金を手にするひとつの形に過ぎない.何か事業を起こそうと思えば,まとまった資金を投資してもらうことになる.これも金を受け取るために条件をそろえることが必要な例だ.

 さて人間が金を獲得する形態は色々とあるわけだけれども,ここに世知辛い真実が潜んでいる.金を獲得できる条件とは,「説明者」にならなければならないということだ.もう少し詳しく言えば,自分が金を寄こしてもらうに足る根拠を,他者に説明し納得させなければならない.その説明とは文字通り投資の価値があることを出資者に説明する行為そのものでもあるし,労働者の例で言えば採用に当たって労働者として役に立つことを説明しなければならないということだ.もし生活保護を受ける身になれば,生活保護を受けるに値することをやはり説明しなければならない.このように世の中で人間は説明者として金を受け取り,生きている.だから説明者として失敗すれば,生存が困難になってしまうのだ.自分が世の中で生かされるに値する人間であることを説明できなければ,収入が途絶えて野垂れ死にするしかない世の中である.説明できるだけの根拠がそろわない人間も,説明が下手で人を納得させることができない人間も生存できない仕組みになっている.

 世の中の生きづらさとか,そういうものは大抵この説明者であることの苦痛から発生しているのではないか.我々が説明者であることから解放されるにはベーシックインカムなどの,金を獲得するために必要であった非自明な条件を撤廃することが必要になるだろう.あるいは完全に自給自足の生活をするしかないのではないか.そもそも人間の存在そのものは合理的な根拠をもって説明できるものなのだろうか.そんなものはないだろう.自分は気が付いたら自分として生まれ存在していた.それだけである.人類そのものにさえ何の意味もない.地球という水たまりに沸いた原生生物みたいなものだ.その人類が社会と宗教をつくり,勝手に自身の存在を意味付けしているに過ぎない.我々個人はその虚構の世界観の中を泳がされている.そしてその虚構の世界観の中で,自身を意味付けし,他者を納得させる説明者であることを演じるよう仕向けられているのだ.しかし視点を変えてみれば,我々が説明者であることも人間社会という舞台の上で演じられているに過ぎないのであり,そこには深刻さをこえた滑稽さがある.人生はシビアな冗談なのかもしれないと思う.