SiGMaの覚書

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衣装を着た思想

思想には衣装を与えてやらなければならない。裸の思想は危険なのだ。そして醜悪である。多くの人間はこれを直視することができない。だから思想は衣装を着せられてから世に送り出される。人間が衣装に身を包んで、醜悪な身体を世間に晒さないようにするかのように。あるいは死体を装飾し、祭壇を祀って、直視しがたい死を形式化してしまうかのようでもある。「衣装を着せる」とはこういった形式化の営みである。我々が衣装を着るとき、我々自身も形式化される。人間の身体は果てしなく多様で、とらえどころがなく綿々とつながった有機物の塊である。衣装は身体を分節化しラベル付けする。そして形式的なパーツの組み合わせに還元する。では思想における衣装とはなんであるか。それは表現手段ということになる。たとえば言語化された思想は既に衣装を着せられた状態になっている。これは決して言語に限ったものではない。しかし衣装を着せるという行為が、思想本来の姿を覆い隠し歪めるのだ。思想家が自ら味わった生の感覚がそぎ落とされている。いくら「痛み」を言語、あるいは映像から想像したところで、本当の痛みを知ることはできない。思想の真の姿を明らかにするには、まず情報媒体の壁を突破しなければならないのだ。自ら行為に没入し、湧き上がる内的感覚に向き合ってこそ、真の思想を知ることになるだろう。行儀よく衣装を着た思想に対する、これもまた行儀のよい社交辞令的批評の数々。こんなものの集積物を「教養」と呼んで、もてはやす世の中。仕方がない。世に出ているものは皆衣装を着せられているのだから。しかし個々の人間の精神はどうか。すっかり思考の内側まで「教養」と呼ばれるものに浸食された人間は決して少なくなかろう。それはもはや身体の伴った人間ではなく、衣装をかぶせるためのマネキン人形である。